さて、2022年新年を迎えましたが、今年は、以前の1万円札にもなったあの聖徳太子が622年に没後、1,400年目に当たります。
聖徳太子の本名は「厩戸王(うまやとおう)」であり、聖徳太子という名前は功績を称える人々が後世になり彼に贈った名前ということとなります。
最近は、聖徳太子の功績に対して疑問を持つ説も現れておりますが、改めて従来の通説となっている聖徳太子の行った主な功績を見ていきたいと思います。
・「冠位十二階」の制定
聖徳太子は、当時の日本にはなかった新しい仕組みである「冠位十二階」を603年に定めました。今までは、家柄(いえがら)や出身地によって、政治を行う役人を選んでいましたが、「冠位十二階の制度」は、家柄にはとらわれず、能力や功績のある人が十二の位である役職に就き、従来の氏族単位の王権組織を再編成しようとしました。能力のある人を適切に重要な役職に登用することを実践したことは当時は画期的な制度であったと思われます。
・「十七条の憲法」の制定
聖徳太子は、役人たちの心構えを定めた「十七条の憲法」を604年に公布します。
内容としては、「和をもって尊しとなす」が第一条に定められており、国にとって最も⼤切な理念は和であるとしています。また、第二条では、仏教を日本に取り入れることを定め、その後の仏教の隆盛のきっかけを作り、武⼠道、求道⼼、茶道、華道、能、庭の形式、建築様式等⽇本の⽂化に多⼤な影響を与えました。また、日本が天皇による君主制であることも第三条にて宣言しています。聖徳太子自らは天皇になれる立場であるにもかかわらず、推古天皇の摂政という形で天皇の政務を代行していき、天皇を象徴とした立憲君主制を当時から指向していたことは大変興味深いと思われます。
・遣隋使の派遣
聖徳太子は、当時の中国を支配していた隋との交流を結ぼうと考え、隋に小野妹子を送りました。妹子が隋の皇帝に渡した国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」(「日がのぼる国の天子より、日がしずむ国の天子へ書を送ります。」)と書かれていました。日本と隋は対等だというこの国書に、隋の皇帝は、皇帝のみに許される「天子」を日本の王が自称した、及び「日没する処」が隋の衰退をイメージさせたことでとても立腹したとのことです。
しかしその後、結局、隋は正式な使者を日本に送り日本と隋の交流が始まりましたので、聖徳太子の対等外交は成功したことになります。
当時は文明的、文化的に日本よりも進んでいた隋に対して従属する関係ではなく、あくまで対等での関係を主張した聖徳太子の外交政策は、その後の日本の外交政策にも影響を与えたと思われます。
(黒川)